岡山駅
倉敷考古館
吉備津神社
連島
早島
児島

中世

 考古学においては、中世とは平安時代の終わりから江戸時代の直前までの間のことをいいます。この時代には、多くの文献資料が残されていますが、考古資料では日常使いの道具や建物の跡などの調査を通じ、文献資料にはあらわされにくい一般のひとびとの生活のようすを知ることができます。

 この時期、現在の備前市周辺では備前焼が盛んにつくられ、西日本を中心に多くの人々に使われ、販路を広げました。倉敷考古館では備前焼の窯跡の調査を行い、備前焼の時代的変遷についての研究を行っています。

亀山古窯跡群
倉敷市玉島八島
中世
JR新倉敷駅から県道を西へ進んだ道に接した北側、神前(かんざき)神社の低丘上に中世須恵器窯跡群があり、その北方山陽自動車道に至る果樹園一帯にも窯跡群所在地。これらは亀山焼と呼ばれてきた。山陽自動車道で一部調査。民衆が用いた鉢・甕・壷の類を主に、寺院の瓦も生産。陶の古代須恵器を受け継いだ中世須恵器の産地。
吉備津神社
岡山市北区吉備津
中世
吉備中山丘陵北西麓が吉備津神社。備中国の総氏神、本殿は国宝。
城が端遺跡
倉敷市粒江、城が端
江戸時代
倉敷の中心市街地南方種松山北麓の低段丘の先端近く。同じ低段丘の東寄りが船元貝塚。1977年、近世土葬墓を約50基調査。同地点に中世火葬骨壷も所在した(『研究集報18号』)。

飛鳥・奈良 平安

 6世紀の中ごろに日本に伝わった仏教は、7世紀に入ると全国的に広がっていきました。吉備でも7世紀の中ごろになると、古墳に代わって秦原廃寺(総社市)や賞田廃寺(岡山市)などのきらびやかな瓦葺きの建物をもった仏教寺院が建てられるようになりました。

 この時代、689年の飛鳥浄御原令よって、吉備は備前国、備中国、備後国の3国に分割され、さらに713年には備前国から美作国を分立させました。こうした分国によって、吉備をさらに弱体化させ、ヤマト王権の支配を安定させる狙いがあったものと思われます。

 8世紀末の平安遷都から12世紀末に鎌倉幕府が成立するまでの間の400年間、平安京の朝廷に政権があった時代を平安時代といいます。吉備でも、この時期に律令に基づく班田制が崩れ、各地に中央貴族や寺社が土地を所有する荘園がつくられるようになりました。

 この時期の遺跡には、総社市新山寺や倉敷市朝原寺などの山上寺院のほかに、1958年に倉敷考古館が発掘調査を行った倉敷市の安養寺裏山経塚などがあります。

天平宝字七(763)年銘
富比売墓地買地券推定出土地
倉敷市真備町尾崎字瀬戸
奈良時代
小田川北岸の宮の鼻、熊野神社の北瀬戸池の北西谷あい。江戸後期に刻字ある二枚の土師質板状塼が出土したと推定した地点(『研究集報15号』)。
広江小陶棺出土地
倉敷市広江
奈良時代
南向きの丘陵の畑地耕作中発見。火葬骨を蔵す。今は住宅団地となる。すぐ東の林、熊坂-福江にある須恵器窯址群の製品と推定。
内山池火葬墓群
倉敷市真備町妹、内山池北
奈良時代
奈良時代火葬骨蔵器に使用された、須恵器壷を複数発見。(『研究集報15号』)。
備中国分尼寺跡
総社市上林江崎
奈良時代
国分寺跡、こうもり塚の東の低丘陵上。築地跡がみえ、主要建物の礎石がよく残る。国指定史跡。
矢部遺跡
倉敷市矢部
奈良時代
造山古墳から東へ、低い峠道を越えた矢部の奈良時代瓦を出土する遺跡。矢部廃寺跡と呼んでいたが、山陽道駅家跡の可能性が強い。
二子古窯跡
倉敷市二子
奈良時代
山陽新幹線が上東遺跡西方の丘陵端に達した地点で、岡山県教育委員会が調査した白鳳・天平期瓦窯跡、須恵器も焼く。戦前の採集瓦を館で保管。
日畑廃寺跡
倉敷市日畑
白鳳時代
王墓山古墳の東裾の白鳳時代寺院跡。四間七間の建物礎石が残る。倉敷市教育委員会による保存目的の調査があった。
下道氏墓地
小田郡矢掛町東三成
飛鳥時代
小田川北岸の丘陵尾根上、江戸時代に和銅元(708)年銘、吉備真備祖母銅製骨蔵器が出土、国重文地元の寺所有。国指定史跡。周辺から別に複数の陶製骨蔵器発見。同地にある石櫃は近隣の他所から移転(『研究集報15号』)。
箭田廃寺(吉備寺)
倉敷市真備町箭田中須賀
飛鳥時代~奈良時代
箭田大塚の南、現在の吉備寺境内周辺の飛鳥・奈良時代の寺跡。吉備寺内に移動した礎石が見られる。出土の瓦類は主に同寺が保管。
賞田廃寺跡
岡山市中区賞田
飛鳥時代~奈良時代
唐人塚古墳の東100メートルの白鳳~奈良時代寺院跡。奈良期の東西二基の塔址には、香川県産凝灰岩切石による壇上積基壇を残す。国指定史跡。
八高廃寺跡
倉敷市真備町八高
奈良時代
小田川南岸の低丘上、塔中心礎石が残る奈良時代寺院跡。
備中国分寺跡
総社市上林
奈良時代
総社平野南部の低丘陵の南端に占地。南大門・中門以外の主要建物の礎石は移動している。国指定史跡。寺域上に江戸時代からの日差山国分寺がある。
幡多廃寺塔跡
岡山市中区赤田
奈良時代
旭川東の平野中心部で、県内最大の塔中心礎石が戦前から国史跡となる。付近を岡山市教育委員会が調査。金堂などの基壇を確かめ、瓦類も明らかにした。賞田廃寺と同じ凝灰岩切石も発見、同様な壇上積基壇の存在を推定。
安養寺瓦経塚
倉敷市浅原
平安時代
戦前に浅原安養寺裏山から掘り出した瓦経塚資料は法華経、心経が完存、瓦製宝塔、図像瓦、塔婆形題箋と共に国重文。安養寺蔵。出土地近くで、戦後に紙本経塚1基を発見。さらに先の瓦経塚に接して別の瓦経塚を発見調査し、焼成が悪く粘土化していたとはいえ、豊富な内容の瓦経塚を埋納状況を含めて明らかにし、造営年代まで判明。(報告書『安養寺瓦経の研究』)。
酒津八幡山
倉敷市酒津、酒津八幡山
平安時代
酒津山後期群集墳所在地の一角の平安初期墳墓。現在では出土地点が確認出来ない。

古墳時代

 3世紀の後半から7世紀にかけての時代で、北海道・東北北部と沖縄を除く日本各地で前方後円墳をはじめとする古墳が盛んにつくられました。

 吉備では、すでに古墳時代最初期に大型の古墳がつくられ、5世紀になると、造山古墳や作山古墳など、畿内の大王の古墳と並ぶような巨大な前方後円墳が築かれるようになります。こうしたことから、この時期の吉備の勢力は、ヤマトの勢力と強調して発展し、肩を並べるような大きな力をもっていたと考えられています。

 しかし、6世紀以降には、吉備地方の古墳の規模は小さくなり、次第にヤマトの勢力に組み入れられていったようすがうかがわれます。

金蔵山古墳
岡山市中区沢田
古墳時代
旭川東岸平野の南に連なる操山の、中ほど山上にある165メートルの前方後円墳。南には、旧児島湾であった上道新田を見おろす。1958年の館の調査で、後円部に2基の竪穴式石室と、それをめぐる器財形を含む方形の埴輪列を明らかにした。竪穴石室は既掘されていたが、一基の石室の端に未発掘小石室(副石室)があり、埴輪質の蓋物(盒)の中に多種多量の鉄器が収めてあった(報告書『金蔵山古墳』)。
法蓮古墳群
総社市下林法蓮
古墳時代
備中国分尼寺跡の北に続く丘陵上の40基ばかりの古墳群には、後期の横穴式石室墳もある。館展示法蓮出土の装飾付須恵器出土墳の有力な候補。
随庵古墳
総社市西阿曽
古墳時代
総社平野の北東部から鬼ノ城へ登る谷の東側尾根上、中期後半40メートルの前方後円墳。未盗掘の竪穴式石室と粘土床があり、武器・武具、農・工・漁具・鍛冶具など鉄器が多数出土。現在消滅。
造山古墳
岡山市北区新庄下
古墳時代
総社平野の南東部、350メートルの巨大前方後円墳。県内第1位、大阪の大王陵を入れても全国第4位の規模。奈良県のどの古墳よりも大きい。国指定史跡。前方部上にある刳り抜き家形石棺は九州阿蘇凝灰岩製。出土地点は上明だか、造山かその周辺の古墳出土に違いない。
金浜古墳
倉敷市塩生、金浜
古墳時代
水島工業基地造成前の塩生海岸北部で、西面した丘陵上にあった古式の横穴式石室墳(『研究集報14号』)。
神宮寺山古墳
岡山市北区北方中井町1丁目
古墳時代
岡山平野の平地に築かれた150メートルの前方後円墳。後円部社殿下に竪穴式石室があり、付属の副石室から鉄器が乱掘で出土。破損をまぬかれた農・工具などは館で整理保管。
宿ささら谷古墳
総社市宿ささら谷
古墳時代
こうもり塚南の宿から、南やや東に山道をのぼった東側、仕手倉山から西へ延びた尾根上の小形横穴式石室、大・小の須恵質陶棺が出土。最終末期の古墳。陶棺は谷を降った宿・末の奥須恵器窯跡群の製品と推定。
作山古墳
総社市三須
古墳時代
岡山県第2位、近畿地方の大王陵に匹敵する墳丘の巨大前方後円墳、286メートル。国指定史跡。
王墓山古墳群
倉敷市矢部―日畑―西尾
古墳時代
楯築・女男岩がある丘陵に群在する、主に横穴式石室を持つ約60基の古墳群(『研究集報10号』)。うち15基ばかりは団地造成で調査後、埋没・移築・消滅した。
六口島牛が首遺跡
倉敷市六口島
古墳時代
鷲羽山西方の島。島の西北海浜は古墳時代製塩遺跡。
千足古墳
岡山市北区新庄下
古墳時代
造山古墳南方、陪塚の一つとして国指定。75メートルの前方後円墳。後円部に古式横穴式石室、内部に九州産砂岩の直弧文石障。近来の調査で石室に接して別の横穴式石室の存在を確認。
王墓山古墳
倉敷市庄新町
古墳時代
王墓山古墳群中の東寄り丘上の古墳。墳丘は変形しているが、25メートルばかりの円墳か。大形の横穴式石室中から明治末年に鏡、大量の須恵器、玉、甲冑、馬具、刀剣などの武器、工具、藺草編み物片等を掘り出す、東京国立博物館蔵。石室の上部の石材は掘り出し転用されたが、下部は元位置に埋まっている。内部にあった浪形の貝殻石灰岩製組合せ家形石棺は、墳丘の南に安置(『研究集報10号』)。
勝負砂古墳
倉敷市真備町下二万
古墳時代
二万大塚の東丘陵上の墳丘が変形した中期後半の前方後円墳。墳丘深くに竪穴式石室、岡山大学調査。石室から未掘のままの状況で鍛冶具など多くの副葬品発見。
二万大塚古墳
倉敷市真備町下二万南
古墳時代
小田川から南、二万の谷へ入るとすぐの平地東寄りにある小丘が、35メートルの後期前方後円墳。後円部に全長9メートルの持ち送りある横穴式石室、岡山大学調査。
天狗山古墳
倉敷市真備町川辺南山
古墳時代
真備町の東南端、高梁川西岸丘陵上、中期後半の前方後円墳45メートル、盾形周庭帯がめぐる。江戸時代に埴輪列と埴輪が記録されていることで有名。昭和初めに竪穴式石室が掘られ、出土品は東京国立博物館蔵。冑の付属具で腕を防ぐ篭手や、矢を入れる靱の金銅製金具などが注目される。平成になって岡山大学が調査。
寒田古窯跡群
倉敷市玉島陶
古墳時代~奈良時代
JR新倉敷駅付近の北、真備町服部の南に位置する小盆地陶は古墳~平安時代の須恵器窯跡群の所在地。その一角では東南部に寒田古窯跡群がある。古墳時代末の須恵器窯跡二個所は調査、他に保存状況の良い古代瓦窯跡もある。
こうもり塚古墳
総社市上林
古墳時代
国分寺跡の東200メートル、低丘陵上の前方後円墳、100メートル。後円部にある全長19.4メートルの横穴式石室は県内最大。内部の大形刳り抜き家形石棺は、井原市浪形産出の貝殻石灰岩製。国指定史跡。
中山茶臼山古墳
岡山市北区吉備津~尾上
古墳時代
吉備津神社の南裏山の前方後円墳130メートル。宮内庁が大吉備津彦命の陵墓とする。古い形式の墳輪片を採集。
塩生遺跡
倉敷市塩生
古墳時代~中世
塩生の海浜砂嘴上は、古墳時代製塩遺跡であり、中世の製塩関係の半球形粘土ばり土坑や炉址も発見。弥生前期土器も出土。同じ砂浜の北端部付近には縄文遺跡が知られる。
熊坂古窯址群
倉敷市林、熊坂
古墳時代
七世紀の須恵器窯址群。灰原からの採集の須恵器片を保管。このあたりから西の福江にかけての丘陵にも同種窯址がある。
都月坂1号墳
岡山市北区津島本町―津高
古墳時代
岡山市街地北の半田山西端近い尾根上、33メートルの前方後方墳。岡山大学が調査、後方部に竪穴式石室。都月型とよばれる特殊器台系譜の初期埴輪が知られた。
唐人塚古墳
岡山市中区賞田
古墳時代
旭川東岸平野にある備前国府推定地北の、山麓にある終末期古墳。墳丘は変形しているが25メートルほどの円墳とされ、切石的な石材による大形横穴式石室内に、兵庫県東部産の竜山石製刳り抜き家形石棺の身が残る。
備前車塚古墳
岡山市中区四御神・湯迫
古墳時代
岡山市街地中心部の東北にある竜の口山から、南東にのびた尾根上にある48メートルの前方後方墳。後方部の大形竪穴式石室から乱掘で、三角縁神獣鏡など十三面が出土。
網浜茶臼山古墳
岡山市中区赤坂南新町
古墳時代
旭川東岸、操山丘陵南西部。近世からの墓地と重なる前方後円墳(90メートル)、特殊器台形埴輪片採集。
湊茶臼山古墳
岡山市中区湊
古墳時代
県道岡山―西大寺線の東山峠を東へ降りかけたあたりの、南側山上の前方後円墳(130メートル)。後円部上には木棺直葬の主体、埴輪がある。南眼下に広がる江戸時代干拓の上道新田は、古墳時代には児島湾の海面、吉備の平野から瀬戸内海への出入口であった。
箭田大塚古墳
倉敷市真備町箭田矢砂
古墳時代
小田川北側の箭田集落を南にみる丘陵末端上の、径50メートル近い大形円墳。整った巨石による全長19メートルの巨大横穴式石室を持つ(国指定史跡)。明治時代後期に掘り出された副葬遺物は、東京国立博物館と地元吉備寺に保管。

弥生時代

 縄文時代に続く時代で、紀元前10世紀頃、北部九州で水田稲作が始まってから、近畿地方で前方後円墳がつくられるようになる3世紀中頃までの間を弥生時代といいます。

 弥生時代には、大陸から稲作とともに青銅器や鉄器といった金属器、機織りの技術など多くの新しい文化が伝わってきました。中でも、吉備地方は稲作に適した温暖な気候や広大な沖積地に恵まれており、北部九州に続いていち早く稲作を取り入れました。

 吉備地方では、弥生時代後期になると稲の生産や祭りの指導、戦いの指揮などを通して有力者がますます力をつけようになり、首長のために墳丘墓と呼ばれる大きなお墓がつくられるようになりました。

酒津遺跡
倉敷市酒津高梁川河床
弥生時代~中世
弥生末~古墳初の酒津式土器採集地点。付近の河川敷一帯は、旧東高梁川の古い沖積平地で、弥生中期以降、古墳、古代、中世、近世の遺跡が所在する。その下手に湿地帯、続いて旧西高梁川の初期沖積平地が知られ、水江遺跡と呼び、酒津遺跡と同時期の遺跡がある。
芋岡山遺跡
小田郡矢掛町中字白江
弥生時代
小田川南岸平野の南、小丘上の弥生時代末墳墓群、土坑墓30基。供献土器多く、古式の特殊器台・特殊壷を含む(『研究集報3号』)。
黒宮大塚
倉敷市真備町尾崎、熊野神社裏
弥生時代
小田川へ向かって北から延びた丘陵(先端が宮の鼻)上の、特殊器台を供献した墳丘墓(『研究集報13号』)。
津島遺跡
岡山市いずみ町 岡山県総合グランド
弥生時代
戦前旧練兵場時代から遺物の採集があり、戦後総合グランドになると野球場建設で遺物が出土。一次国体、武道館、二次国体の各工事で弥生時代の中枢的遺跡と判り、特に前期水田遺構が注目され、一部国指定史跡となる。一次国体の資料の一部は当館で保管(『研究集報17号』)。
南方遺跡
岡山市北区南方1~3丁目―国体町
弥生時代
JR岡山駅の北、線路の東西にわたる広域の弥生遺跡。戦前の南方蓮田、戦後間もなくの旧国立病院建築工事、旧日本興油の工事などで弥生時代の遺物を発見。JR新幹線、旧国立病院関連、ベネッセ(南方釜田遺跡)などは線路東側で、岡山済生会病院新築などは線路西側で調査。津島岡大遺跡、津島遺跡などと並ぶ旭川西側平野の弥生時代中核遺跡。戦後間もなくの採集土器片は一部館で保管。
上東遺跡
倉敷市上東
弥生時代
倉敷市東部、足守川西岸平野の広範囲の弥生遺跡。戦前から土器の発見があり、戦後間もないころの水田地下げで多量の資料が出土。弥生後期上東式土器の標式となった。JR山陽新幹線とその側道、一部県道工事は岡山県教育委員会、建物建築では倉敷市教育委員会の調査があった。
女男岩・辻山田遺跡
倉敷市庄新町
弥生時代
楯築遺跡の南に続く庄新町の団地となった丘陵の、中央部から南にあった墳墓遺跡。女男岩は20メートルほどの墳丘、木棺粘土床に鉄剣2本を副葬。墳丘周辺から多量の供献土器出土、台付家形土器・特殊壷を含む。その南に続く丘陵尾根上に溝で区切られた土坑墓群が続くのが辻山田遺跡、住宅団地工事で消滅(『研究集報10号』)。
種松山銅鐸出土地
倉敷市粒江種松山山頂
弥生時代
戦中の松根掘りで四区袈裟襷文銅鐸が出土。種松山一帯には真菰谷貝塚など複数の弥生中期後半の高地性遺跡がある。
白江遺跡
小田郡矢掛町中字白江
弥生時代
芋岡山遺跡の西、白江集落南の扇状地の弥生遺跡。新・古二式の弥生後期土器群が出土(『研究集報1号』)。
仁伍遺跡
倉敷市味野6丁目
弥生時代
味野の西にある竜王山の北東斜面の弥生中期末、仁伍式の標式遺跡。製塩土器があり、小貝塚もみられた(『研究集報8号』)。
由加銅剣出土地
倉敷市由加
弥生時代
蓮台寺と由加権現の北側裏山で戦後間もなく炭焼窯を築くとき、銅剣5本が出土。内1本は紛失、平形2本と細形2本が残り、細形の1本は考古館蔵。平形の1本はS字連続渦文と綾杉文があることで有名。
上の町保育園(池尻)遺跡
倉敷市児島上之町池尻
弥生時代
保育園の工事で弥生中期後半の資料が出土。同時期の製塩土器が注目される(『研究集報6号』)。
下津井神道山遺跡
倉敷市下津井吹上
弥生時代
下津井北部の丘陵東寄り尾根上で、戦前に弥生中期末の壷棺とみられる凹線文長頸壷が出土した。
楯築遺跡
倉敷市庄新町~矢部
弥生時代
吉備中山の西の独立丘陵上、40メートル余りの不整円形の墳丘に突出部がつく。墳頂に五個の立石がある。岡山大学調査。埋葬主体は木槨木棺、棺底に30キログラムを越す朱、玉類多数と鉄剣1点を副葬。墓坑埋め土内から特殊器台・特殊壷を含む多数の土器類と破片となった弧帯石などが出土。国指定史跡。墳頂で楯築神社の神体となっていた弧帯石は重要文化財、墳丘横の収蔵施設へ保管。
百間川原尾島遺跡
岡山市中区原尾島―藤原西町
弥生時代
旭川放水路百間川をはさむ南北にわたる弥生時代遺跡。百間川改修で河川敷を調査。後期の小区画水田は東方の沢田遺跡へも続き広範囲に発見された。
妹の銅鐸
倉敷市真備町妹池の上 字梨ノ木(蓮池尻)
弥生時代
大正の初めに蓮池放水口工事中、突線鈕流水文銅鐸が平地から出土。東京国立博物館蔵。
雄町遺跡
岡山市中区雄町
弥生時代
旭川東岸平野、JR山陽新幹線工事で調査した弥生時代の集落遺跡。調査後に民家の庭から銅鐸が出土している。
百間川兼基遺跡
岡山市中区兼基
弥生時代
沢田遺跡の東に続く、河川敷内の弥生遺跡。百間川改修で調査。
鹿田遺跡
岡山市北区鹿田
弥生時代~中世
岡山大学医学部構内とその周辺。弥生時代後期ころの岡山平野南端の遺跡。平安時代には藤原氏の鹿田庄となり、そのころの遺跡も残る。庄園のころにもまだ海に近かったといわれる。岡山大学埋蔵文化財研究センターが、津島岡大遺跡と同じころから岡大鹿田遺跡として工事の都度対応している。
天瀬遺跡
岡山市北区天瀬・天瀬南町・京橋町
弥生時代
岡山市民病院とその周辺の遺跡。鹿田遺跡と共に弥生後期ころの岡山平野南端を占める遺跡。
兼基銅鐸出土地
岡山市中区兼基
弥生時代
操山北麓、兼基集落から南へ谷をのぼった丘陵から、銅鐸が別々のとき3個出土。一個のみ現存。

縄文時代

 縄文時代になると気候が温暖化し、海水面が上昇しました。そのピークである6000年前頃には、現在の海水面より2~3メートルも高かったといわれています。このため、吉備の平野部では、内陸の奥深くまで海が入り込んできました。遠浅の海では魚介類が豊富に獲れたため、縄文時代には沿岸部に数多くの貝塚がつくられ、人々にとってたいへん住みやすい環境であったことがうかがえます。

 食べ物が安定して確保できるようになると、一定の地域に定住するようになりました。人々は地面を掘り下げて作った竪穴式住居に住み、数件が集まってムラもつくられるようになりました。

広江・浜遺跡
倉敷市広江・浜
縄文時代~中世
児島西岸の低位段丘から砂嘴上へかけての遺跡。縄文後・晩期と弥生前期・後期、古墳後期製塩、古代・中世の遺跡が重なる。細形銅戈片も出土(『研究集報14号』)。
里木貝塚
倉敷市船穂町船穂里木
縄文時代
船穂から北の二万への道が山裾に達した東側、旧海浜砂嘴上の前期~後期の縄文貝塚。大正時代京都大学調査、その資料は前期里木Ⅰ式と中期里木Ⅱ式の標式土器となる。戦後ブドウの温室が建ったが、温室と温室の間を当館で調査、人骨23体出土、縄文中期土器の細分資料となる(『研究集報7号』)。
涼松貝塚
倉敷市船穂町船穂涼松
縄文時代
里木貝塚の西南の平地を北に入った山裾で、谷奥の低段丘上、縄文前・中・後期の貝塚。下層に早期押型文、人骨20体出土(『研究集報21号』)。
船元貝塚
倉敷市粒江、船元
縄文時代
種松山北麓、低段丘上の縄文貝塚(前・中・後期)。大正年間京都大学が調査、埋葬人骨14体出土。京大蔵となった縄文中期前半の土器は船元式土器の標式。
福田貝塚
倉敷市福田、古新田
縄文時代
児島西岸の縄文貝塚。土取りで削平されたが、古城池堤防の下層には残存している。1955・6年に発掘、資料は奈良国立文化財研究所、旧瀬戸内考古学会と倉敷考古館に分散。後期福田KⅡ式の標式遺跡。
羽島貝塚
倉敷市羽島、貝殻畑
縄文時代
倉敷市街地東の縄文貝塚。大正時代に発掘の人骨は東京大学。1951年の調査で出土した貝層下砂層資料は『研究集報11号』。1960年代後半、周辺の宅地化が進む中、倉敷市が買収。児童公園として保存。
彦崎貝塚
岡山市南区(旧児島郡灘崎町)彦崎
縄文時代
宇野線彦崎駅から南へ進む道の西側低段丘上の縄文前~晩期貝塚。戦後間もなく東京大学人類学教室が発掘、20体余の人骨を発見。前期彦崎ZⅠ.Ⅱと後期彦崎KⅠ.Ⅱの標式遺跡となる。2003・04年には岡山市教育委員会が確認調査、国史跡となる。
島地貝塚
倉敷市玉島八島
縄文時代
JR山陽新幹線と在来線が平行して走る新倉敷駅西方の低丘陵末端にある後・晩期縄文貝塚、弥生前期の資料も出土。丘陵の西端は削平され消滅した部分が多い。新幹線工事では、丘陵西北端の平地で縄文前期初めの資料が出土した。島地貝塚の北方丘陵裾には、他にも縄文貝塚が知られる。
中津貝塚
倉敷市玉島黒崎守屋
縄文時代
玉島地区の西部、黒崎の平地は近世干拓地、湾入していた海域をめぐって、東・西元浜と中津の縄文貝塚がある。湾入部の旧西岸、干拓地用の溜池である新池の西側低段丘上が中津貝塚、その南端の高所が後期中津式土器の貝塚。北に続く低段丘上に後期後半と晩期の土器が発見され、6体の人骨が出土。
磯の森貝塚
倉敷市粒江、森
縄文時代
種松山の東部の谷筋を南北に通る瀬戸大橋道の西側、山丘の北麓低段丘上の縄文前期貝塚。戦前と戦後に幾度かの調査があった。1982年に市道改修中、段丘の東端崖面に露出した磯の森式土器の貝層を倉敷市教育委員会が調査している。
舟津原貝塚
倉敷市粒江、舟津原
縄文時代
磯の森貝塚から瀬戸大橋道を間にした東側の低段丘上の縄文後・晩期貝塚。瀬戸大橋道工事で、段丘末端を岡山県教育委員会が調査、縄文前・中・後・晩期の遺物が出土。晩期の木の実貯蔵穴も発見された。
阿津走出遺跡
倉敷市阿津
縄文時代・古墳時代
児島競艇場の北西、旧海岸に面していた低い台地から北に続く砂嘴上へかけての遺跡。JR瀬戸大橋線の高架橋脚部を、岡山県教育委員会が調査した時、縄文後期と古墳後期製塩遺跡が知られた。
津島岡大遺跡
岡山市北区津島中
縄文時代〜弥生時代
岡山大学津島キャンパスの遺跡。開学以来、長く遺跡対応などはなかったが、1980年代前半からは、工事の都度岡山大学埋蔵文化財研究センターが調査。縄文後期~弥生初期以後各期の遺跡がキャンパス全体で明らかになっている。
朝寝鼻貝塚
岡山市北区津島東3丁目
縄文時代
岡山大学の北東角に近い丘陵末端にある旭川河口付近では唯一の縄文貝塚。戦前には後期初めの土器が採集されていたが、岡山理科大学への道路工事の時、同大学の調査で前期からの遺跡と判る。
百間川沢田遺跡
岡山市中区沢田
縄文時代〜弥生時代
原尾島遺跡の東に続く百間川河川敷を中心にした遺跡。百間川改修で調査、縄文後期からの遺跡もあり、弥生前期には環濠集落、弥生時代全体にわたる旭川東岸の中心的な遺跡。後期の水田跡は原尾島から連続。
西岡貝塚
倉敷市西岡
縄文時代
倉敷市街地北方の山裾、低段丘上の縄文貝塚。明治時代から知られた中期を中心に前期・後期の大形貝塚だったが東半部は地下げされ、残部も宅地となる。
船倉貝塚
倉敷市船倉町
縄文時代
北麓に羽島貝塚がある向山の西麓、低段丘上の縄文貝塚(前期~後期)。1991年都市計画道路工事中発見、倉敷市教育委員会が調査後に消滅。深い土坑墓3基を発見、それぞれに人骨が残っていた。資料は倉敷埋蔵文化財センター。

旧石器時代

 吉備地方にはじめて人が住みはじめたのは今から約2万年前の旧石器時代です。この時代は氷河期にあたり、平均気温が現在よりも7度も低く、大量の氷床が形成されたため海水面が下がり、海水面は現在より100m以上も低かったといわれています。このため、日本列島は大陸と陸続きになり、ナウマンゾウやニホンムカシジカなど様々な動物が渡ってきました。そして、それらの動物を追いかけて旧石器時代の人々も渡ってきました。

 旧石器時代には、現在の瀬戸内海一帯は広大な平原だったと考えられています。とくに倉敷市児島の鷲羽山の沖には広い湖があり、周辺には多くの動物が群れていたようです。湖を見下ろす鷲羽山などの台地の上では、石槍(いしやり)やナイフ形石器など、石器しか持たない人々が、水辺に集まる動物たちを狩りしたり、木の実などを採集して暮らしていました。

鷲羽山遺跡
倉敷市下津井田之浦~大畠
旧石器遺跡
国の名勝鷲羽山では、戦前からサヌカイト石片と石器類が採集されていた。1954年の調査により、西日本で初の後期旧石器遺跡となる(『研究集報6号』)。
櫃石島遺跡
香川県坂出市櫃石島
旧石器遺跡
鷲羽山西南の島。丘上には広く後期旧石器が散布(『研究集報4号』)。東南の海浜は、縄文、弥生遺跡で、古墳~中世の製塩遺跡もあり、瀬戸大橋工事では香川県教育委員会が調査、海浜からは奈良三彩小壷も出土した。
竪場島遺跡
倉敷市竪場島
旧石器遺跡
鷲羽山東方の小島。島の東部海浜は縄文、島の丘陵上は、後期旧石器時代ナイフ形石器を出土する。
釜島遺跡
倉敷市下津井釜島
旧石器遺跡
鷲羽山東南沖の小島。丘陵上は、後期旧石器の遺跡。採集資料を館で保管。海浜には古墳時代製塩遺跡がある。