(32) 盒〈蓋付き容器〉中のお宝は?〈その2〉 - よもやまばなし

(32) 盒〈蓋付き容器〉中のお宝は?〈その2〉
2008/6/11

 金蔵山古墳の中央竪穴石室に付設されていた副室から、四個の埴質盒が出土したことは、先回述べたことだが、この中から発見されたのは、大先生をはじめ、多くの期待を裏切った形のお宝で、僅か2点を除いてすべて鉄器だった。

盒Ⅱの外形と内部鉄器は大工道具

盒Ⅰ内 各種鉄器

盒Ⅳ内の農具や針

 盒内の全遺物数は247点、その内、筒形銅器(儀仗での槍や矛などの柄下に取り付ける石突)1点と、環状石製品(調査当時は変形石釧=腕輪とされたが、近年類例の研究から刀の環状柄頭類品とされる)の半欠品1点の他、245点は工具143、農具57、漁具8、武器2、その他35点である。

 副室は小さいものだったが、四個の盒は内部の一方に片寄せられており、残りの空間からも鉄器類が発見された。様々な形の鉄鏃43点の他、釣針・銛・やすなどの漁具18、小さい刀子(小刀)10、に竹製で漆塗りの竪櫛40点以上があった。

 しかもこれら沢山の鉄器類は、四個の盒に入り良いものを適当に入れたのでなく、種類別に分類されていた。1959年に出版された報告書『金蔵山古墳』(倉敷考古館)にも、「・・盒内の遺物はある程度、種類別に分けられていたように思われる。盒Ⅰには武器、漁具、農具、工具、その他が、盒Ⅱ・Ⅲには工具のみが、盒Ⅳには農具を主とし、そのほか若干の工具がいれられている。」とあるがそれ以上の詳しい説明は無い。

 これらの分類をいま少し詳しく見よう。盒Ⅰは、先に記した鉄器以外の2点が入っていた盒で、特殊品ばかりの容器らしい。武器と言うのは二股の矛とか、工具に入る斧形は朝鮮半島請来の鋳鉄製品であったり、他の工具とは異なるものだけ。漁具も銛だけで、釣針・やすなどは、銛より小さいにも関わらず、しかも空間も十分にある盒だが、この盒中に入れられず盒外にあった。農具と見た鎌も形は鉈鎌だった。

 盒ⅡとⅢは工具とするが、同じ名前の工具でも、大小とか形が違い用途の違うと思われるもので分類されている。たとえば大工道具と、指物・刳り物用道具の違いというところだろうか。

 盒Ⅳは農具と若干の工具とするが、ここでは小さいとはいえ30ばかりも入っていた針の存在が注目されるのである。この盒に入っていた代表的な農具、稲穂摘み用の手鎌30と対応する数である。その他には、普通の草刈鎌(現在のものと形は異なるが)と鍬先(木鍬の先に取り付ける)に工具と同じ手斧、これらは当時としては農業や衣服生産もする最も一般的で、多数の人々の生活必需品であろう。

 岡山県下では、この古墳が築かれたであろう四世紀末か5世紀初頭頃では、最大の古墳であったかもしれない、この金蔵山古墳の主は、当時の全ての分野の生業を、完全に掌握していたことを、それぞれに分類された盒の中身は示していた。

 埴輪と同じ意味で作られた葬送用の仮器である盒のなかに、当時としては貴重な実用の鉄器を収めて、真の実力を誇示したといえよう。墓に副葬することは、実用品を廃棄する事だから、現実にはより多くの鉄器を保有し、それを使う人間を自由に統治していたことなのである。

 この古墳では盗掘されたことで、他の副葬品の全貌は不明だが、鏡も4~5面はあったとの伝えもあり、破壊された石室には、多くの刀剣の存在していたことを窺わす鉄片もあり、短甲片も、碧玉製品片もあった。

 多数の鏡や玉類を副葬した、吉備王者の姿についてはよく語られるが、金蔵山の盒中の品々は、これを日常に使用して、各方面で、吉備の基礎を築いていた人達を写しだす宝であった。盒に分類されていたように、すでに専門別の知識や技術を持つ人々が、活躍していたのであろう。針には糸を通す小孔もあり、通されていた糸の痕跡を残す孔もあった。どのような衣服が縫い上げられていたのだろうか。王者の衣服だけだったとは思えない。

倉敷考古館日記だより
昭和28(1953)年4月21日 火 晴

  ・・・金蔵山古墳より、鏡・玉類など珍品出土。山陽・産経・読売などが記事を取って帰った。

 (金蔵山古墳の南石室では、盗掘者が天井石1枚を割って石室に入っていたが、その時割った天井石の半分が、石室内に落ち込んでいた。そのためこの石の下だけ盗掘を免れたことになり、たまたまそこに鏡と玉が残されていた。まさに不幸中の幸と言うべきか。新聞発表も新発見の盒や鉄器は注目されず、鏡と玉が注目されたようだ。館で日記を書いた職員が「珍品」などという言葉を使っている時代である。)

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