(148) 「出土地不詳」・・そのルーツは? - よもやまばなし

(148) 「出土地不詳」・・そのルーツは?
2013/4/15

 公私に限らず各種博物館の所蔵品が、どのような方法で館蔵品になったかは、それぞれに違っている。しかし一般的には、個人収集家のコレクション寄贈・館独自の購入・収集活動などによるものであろう。すこし広く、世界的に歴史的にも見ると、民族や国家間の侵略や軋轢、それぞれの国の政治情勢のなかで、非合法的な売買や移動、略奪のあることも、忘れられない事実と言えよう。

須恵器壷
赤磐市(旧西山村)砂川河床出土
(上)倉敷考古館展示ケース内

(下)『西山村史』掲載写真

 だが身近なわが国では、動物園や水族館は別としても(これらも博物館の仲間)、人文系博物館の蔵品は、誰かのコレクションとか、何か既にまとまった資料があったとか、注目される文物があった場合に、購入や寄贈された、それが博物館の元になっていると理解されている方々が多いようだ。倉敷考古館でも、「これは誰のコレクションですか?」としばしば聞かれてきた。

  当館の場合は、展示品のほとんどが、館による発掘調査・整理・研究などによるものであるが、この旨を説明しても、理解されて無い場合が多いようだ。わが国では、昨今のような大掛かりな工事などに伴う調査が普通になっては、調査するのは、公の機関、教育委員会か、埋蔵文化財センターとか、大学だけという理解のようである。

 ともかく地方の小さい考古博物館にも、当然ながら調査研究は義務付けられ、権利でもあるはずなのだが・・・今では実情が全く違っていると言うことだろう・・・とは言うものの、当館での展示品が、発掘調査による物が多い中でも、僅かではあるが他の博物館並みに、多少の購入品はあるのである。  ここで話題にする須恵器のやや大形の壷も、購入品であった。胴径も高さもほぼ同じ43cmばかりの丸底壷。球形無傷の胴部全面や口縁部分には、上から垂れ下がるようにかかった緑色の自然釉の流れたものである。

  古墳時代後期という、時代の持つ付加価値を別としても、考古博物館の資料としては優品といえよう。しかしこの壷は、個人蔵品ではあったが、既に確かな出土地は不明だったのである。購入は1960年頃の事だっただろうか。

 今回突然に、出土地不詳と言うことでは、考古館資料として一級品とはいえないこの壷を取り上げたのには、先回の「よもやまばなし147」の影響である。実はこの壷、考古館で購入後、出土地の伝承が判明したものだった。147話を書いていて、判明した時の記憶とつながったことからである。

 先回の話題中、現在は赤磐市となっている、旧西山村の『西山村史』に触れた。それがこの壷を思い出すきっかけ・・・・ずいぶん以前のこととなるが、かつてこの『西山村史』を見ていた際、偶然にも発見したのが、考古館蔵品になっていたこの須恵器壷と、全くのそっくりさんの写真だった・・・

 今回左上に示した二つの写真、皆さん見て「いかが判定?」、一つは考古館蔵品、他の一つは『西山村史』の小さな写真を取り込んだもの、こちらは少々分かり辛いものだが、よく見れば見るほど、両者はそっくりである。

 1954年刊行の『西山村史』の記載では、これは村内出土資料の一つとして紹介されていた。またその頃までは、村外ではあるが個人名の分かる人物の、蔵品だったようである。しかもこの壷は砂川河床出土とされていた。  しかし館が購入した時は、すでに別の所有者の物になっていた。 村史刊行の数年後のことであろうが、この壷はかつての所蔵者の手を離れ、どのような経緯をたどってか、出土地は不明となって、考古館に収まったと言うことだったようだ。  その後この須恵器壷にとって、地元と思われる地域の識者に確かめると、間違いなく村史に記載されていた壷と、同一品であるということだったのである。

 物言わぬ遺物のこと、こうした資料には、意識的に出身地が消されたり、別の身分が与えられたり、一度迷子になってしまうと、なかなかにその出自は分かり難いものだが、近い地域と言うこともあり、運よく身元の分かった迷子だった。今では、迷子になっていたことも忘却されているだろう。

 とはいえこの壷は、どのような遺跡で用いられていた物か、砂川河床からの出土であっても、遺跡が何であったかは明らかでない。砂川は、岡山県下では三大河川の中の二つの川、東部の吉井川と中の旭川の間を流れる小河川である。

 しかし岡山県下では第三位の規模を持つ大前方後円墳の両宮山古墳、今も周溝の一部には水をたたえる、全長約190mの大古墳や、備前国分寺のある平地を流れ下っている。この流域地域にとっては、重要な水源だったといえる。

  旧西山村は両宮山古墳の北3~4km辺りの一帯だが、砂川はこの地の平地中央を流れている。砂川の名のように浅く、小さい川であることから、かつては周辺平地の何処に流路を変えていたかも分からない。かつては集落があった位置が、洪水によって埋没した可能性もある。

 周辺には、この壷が用いられた6世紀頃の後期古墳も多い。しかし河床に無傷で埋まっていたとうことは、古墳からの出土品とも思われず、かつてはその地にあった集落内で、使用されていた可能性も有る。或いは川辺で水の神に、旱魃や洪水に対する祈りにでも用いられたのかも知れない。

 本当のところのこの壷のルーツには、まだ疑問符が残っているのだが、「出土地不詳」だけは免れた。

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