(120) えとの中の辰 - よもやまばなし

(120) えとの中の辰
2012/1/15

 先回は今年が辰年であることから、考古館の近くにある橋の辰(竜)について話題とした。

 今あなたに「何の年ですか?」と尋ねると、ごく普通に「ねずみ」とか「うし」「とら」と言う様な、動物名が出てくるはず。今年が辰年といっても当然の話として納得しているように。

 しかし今年は「壬辰」と書くと、「?」と思う人も多くなっているのでは・・・「還暦」といえば60歳のこと、と知っていても、今では本来の干支「えと」が、どれほど知られているだろうか・・・・

  わが国では古代以来、江戸時代末までも、甲・乙・丙・丁・戊・・・の十干と、子・丑・寅・卯・辰・・・の十二支を組み合わせた順番が、暦の年月日、時刻、方角などの表示として使用されてきた。これがいわゆる干支(えと)で、生活の多くの部分の基準となっていた。この組み合わせの一巡が還暦だが、今では辛うじて、自分の生まれ年と関連して、12の動物名と還暦という意識だけが「年」の上に、やっと残っているという程度であろう。現代文明の中では、すでに不要となった文化なのだ。

 わが国の干支の手本は中国である。この干支が、どのような経過で創造されたか、多くの研究があることだろう。まったく素人のものが、口を挟むことではないが、遠い祖先たちは、一年の日月の巡りで、太陽が同じ位置に帰る日数を知ると共に、その間に月の満ち欠けの一巡が、ほぼ12回であることも、当然気づいたことであろう。木星が天空を一巡するのが、12年ともいう。

 十二支がそれらの数値から始まったか否か知らないが、12の数は重要な生活基準となったようだ。これに日常の身近な動物たちを当てて、日々の生活に生かしていたことは、自然と共にあった先人の知恵であろう。10の数値は、自分の手の指からだろう。

 十二支の動物たちのうちの11種は、日本人にとって羊や虎は、身近かな動物ではなかったかもしれないし、猪はイノシシと思っているが、中国ではブタのことで、これらの動物は中国大陸なら実在した動物ばかりである。がその中に混じってただ一つ、架空の動物竜がいるのはいったいなぜなのだ?

 今から3000年以上も昔の中国で、最も古い王朝といわれてきた殷時代の遺跡から、亀甲や牛の肩甲骨に彫られた、漢字の始まりの文字といわれている甲骨文字の出土していることは、これも常識であろう。

 この中で日付けを表すのは、既に干支なのである。だがこれらの十二支が、現在知られるような動物を指していたかどうかは、よく分かってないらしい。ただ2250年ばかりも前の、秦時代墓出土の文字(竹簡)には、十二支に、今に近い動物が当てられた記録がのこされていたようだ。

写真(1)甲骨文 中ほど十(甲)の下が(辰)、その下が(卜)

大原美術館蔵甲骨部分

 大原美術館の東洋館には先の殷代甲骨が、展示されている。実はこの資料は東洋館が出来るまで、半世紀以上前から40年前頃までは、考古館で展示されていたものだった。この甲骨の文字の資料は40点足らずだが、これについては『倉敷考古館研究集報4号』(1968年)に伊藤道治氏によって解説されている。

 この中の牛の肩甲骨に彫られた占い文の日付干支は、50例ばかりあった。その中で、辰はただ一度、虎が2度、他の動物は4~5度記されている。全く偶然かもしれないが、占いの日に、辰の日が少ないのが気になった。大原美術館蔵の、甲骨文中唯一のこの辰の日には、次のように卜われていた。他の資料の中には、同様なものは無い。

 「甲辰の日に卜う、丁未の日に雨ふるか。充(まことなり)」と。偶然かもしれないが、辰日の占いが降雨に関係している。

  ところでわが国では、弥生時代の土器などに描かれた絵画模様の中に、一般的に竜とされるものがある。何が竜かは難しいがその多くは、卑弥呼が生きていた頃かと思われる頃である。中国ではすでに、今と同じ干支が使用されている。竜の観念がわが国に伝えられていても不思議は無い。

写真(2) 弥生時代末頃の土器・器台脚面に描かれた竜

岡山市天瀬遺跡出土

写真(3) 弥生時代末頃の土器に付いていたと思われる竜首、大きさほぼ10cm

倉敷市矢部出土

 左の写真(2)は岡山市街地の南部、新京橋の西側辺りの出土品である。当時その地は、川の河口で瀬戸内に面するあたりである。この絵は、何かささげ物を載せる背の高い器台という土器の、細長い筒形の脚部に線刻で描かれたものである。三点は別々に描かれていたが、便宜的に集めたもの、あたかも稲妻か竜巻のようであり、うねる波頭的なものも描かれている。

 いま一つ、右の写真(3)は土製品だが、土器に接着する部分品と見られている。出土地は倉敷市東端の一角で、足守川に面した小丘陵の北裾近くだが、この丘陵上には楯築神社があり、そこは弥生末の大形墳墓遺跡でもあった。古くから神社のご神体になっていた石に、彫られた精巧な渦巻状の模様も、竜ではないかとも言われている。

 この土製品断片は、竜の顔というのが大方の意見。大きく口を開いているので、注口であったかもしれないが、土器の本体は不明。ただ周辺採集土器から、この遺物もやはり卑弥呼の晩年頃か・・・・

 ともかく中国でも、またその文化を遅れて取り入れたわが国でも、竜の存在は、他の実在動物と同様に、生活周辺で生きているもの、と認識される現象だったのであろう。人間の意のままにならぬ天地・空間・水中・海中・・諸々の自然現象の象徴として、動物の竜が形成されたのであろう。

 特にわが国に、竜の知識だけが伝えられた当初は、農耕生活に、あるいは海上航行に最も関わり深い、激しい風雨・稲妻・竜巻・渦巻く怒涛が、竜と認識されたのではなかろうか。しかしそれは時により、慈雨や順風ももたらす天空の聖獣でもあったのだろう。弥生人に限らず、東洋人は竜の力を崇め、その恵みを祈ったはずだ。

 ところが現代人は、忘れてしまっている竜の尻尾に、原子力というものをせっせと、植えつけているのでは・・・・・

 (写真2は、『岡山市埋蔵文化財センター紀要 第3号』2011.3より作成。写真3は、倉敷埋蔵文化財センター提供、遺物はそれぞれの埋蔵文化財センターにある。)

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