(76) KURASHIKIMON三代 - よもやまばなし

(76) KURASHIKIMON三代
2010/3/15

 考古館からいえば北のすぐ近くに、小丘の鶴形山がある。この山の南裾に沿うように町屋が広がったのが、古い倉敷の核でもある。その一角に、現在の倉敷公民館はあるが、かつてその地は、江戸時代に大庄屋も勤めたことのある、小野家の屋敷跡だった。ここは考古館から行っても、150mばかり、大原美術館からは、正門を出て、大原美術館の名画を集めた画伯、児島虎次郎デザインの竜を彫る石橋(今橋)をわたり、そのまま進むと100m足らずの場所である。

流政之作 KURASHIKIMON 1969年

高梁川酒津川原 分銅形土製品 弥生時代中期

福田貝塚 土偶 縄文時代後期

 まさにかつての倉敷の中心地にあるともいえる、公民館の入口に立つのが、写真(左)の抽象彫像。黒花崗岩製で本体は高さ92cm、台石ともで2m。1969年に彫刻家・流政之氏によって製作され、公民館(当時は倉敷文化センターと呼ばれていた)建設の翌年に、倉敷ロータリーから館新築記念に贈られたものである。最初は入口内の正面に据えられていたが、改装の際、屋外の街角ともいえる位置に据えかえられた。

 流氏は1923年に長崎で生れ、海外での評価も高い世界的な彫刻家として知られ、各地に著名な作品がある。ニューヨークで同時多発テロにより破壊された、世界貿易センターでも、1972年に、シンボルとして250トンからの「雲の砦」を製作し高い評価を得ていた。倉敷公民館前の彫刻が造られた、1969年には、ニューヨーク近代美術館での、ロックフェラーコレクション展に、出品している。

 ところでこの彫像の下部に彫られているのが、今回のローマ字タイトル部分である「KURASHIKIMON」、これは「倉敷者」の意味である。見る人がどのように感じるかは自由であるが、少なくとも、作者には、倉敷人のイメージはこのようなものだったのであろう。抽象化された簡略な姿態だが、両手を踏ん張り背筋を伸ばした中で、胸にだけ半球をつけるのは、倉敷人の誇りなのか心意気なのか・・・・

 写真(中)は、弥生時代中期の遺物、分銅形土製品と呼ぶもの。長さが7.5cm、厚さは1cm足らずの、小さい土版状のものである。倉敷市を流れる高梁川の酒津河川敷きから、採集された。この川原の酒津遺跡については、すでにこの「よもやまばなし」でも(6)や(10)などで取り上げているように、各種・各時代の遺物が採集されているが、これもその一つ。考古館で展示している。

 この遺物、形が秤の錘の分銅に似ることから、分銅形と呼ばれたが、今では分銅を知らない人が多くなり、この名前にも困ったことだが、ともかく円形の両脇を上下で大小を付けて抉り取ったような形である。だが実際には、個々で形は違う。岡山県南部の弥生遺跡で出土例が多いのが、特徴である。ご当地物ということ。

 これは一体何だと聞かれると、本当のところは分からないというのが(本当)なのだが、上部と思われる部分に、顔を描くものがあったり、細い櫛目で、眉のような表現があることから、極端にデフォルメされた、人体と思われるのである。いわば手足のついた胴の中に、顔が重なっているようでもある。面白いことにこの分銅形土製品は、発見されたもののほとんどが、どこか欠けるか、破片になっていることである。写真(中)の資料もその例に漏れない。

 しかし人体を象ったものと思われるので、この分銅形土製品は、先の20世紀作「くらしきもん」からは2000年ばかりは昔の製作、「くらしきもん」ということになる。どこか肩肘張ったところが、似ているのでは・・・・・

 写真(右)は、倉敷市内に数多い縄文時代貝塚の一つ、福田貝塚から出土品の土偶である。この土偶も館で展示している。福田貝塚についても、すでに、この「よもやまばなし」第(5)話でとりあげているが、この土偶はそのときの調査以外で、採集されていたのである。いずれにしても、当地方としては土偶は大変珍しく、縄文時代も後期の4000年ばかりも昔の土偶ある。

 ただこの土偶は、教科書に載るような東北や関東の、不思議な造形美で飾られた五体の整ったものではない。頭は始めから作られていない。胸の部分だけで、しかも大きな乳房二個のみ。下は欠損しており、残存部は僅か5cm程度のもの。乳房以外の部分は厚さも1~0.5cmの板状のつくりである。

 とはいえこれには胴下半部も付いていたようで、他の類似品から見て、そこには妊婦を思わす腹部か、あるいは女性性器が表現されていただろう。縄文土偶は、ほぼ全てが女性である。この土偶は、女性の機能を極端にアピールした人体表現といえよう。しかし外形だけでは先の分銅形品とも、どことなく似る。しかも縄文土偶は壊されているのが原則。この点も、弥生の分銅形土製品と共通している。

 この女性を意識した人物は、先の弥生の「くらしきもん」からみれば、2000年は昔であろう。女性の初代「くらしきもん」ということになる。

 まるで2000年ずつ間を置いての、三代だが、それぞれの時代人が、「ひとがた」に意識したものは何であったのか。共通することは、自分たちの目指す意識表現以外は、省略・抽象化することに、なにの躊躇もないということだろう。長い時代を隔てても、作者はやはりみな同じ人間であった。

 これらの造形品は、倉敷の地に由来したのだから共に「くらしきもん」といっても怒らないだろう。

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