(103) 松根掘りと炭焼 - よもやまばなし

(103) 松根掘りと炭焼
2011/5/1

 このタイトルを見て、あゝあれかとすぐ分かる方は、少なくとも70才以上の方だろう。炭焼だけなら、現代では上等な木炭は高級品で、特別な製品の製作法を思われるかもしれない。しかし木炭が火力としてのエネルギー源であることは、一応現代も知られている。

種松山出土の銅鐸

 このタイトルを見て、あゝあれかとすぐ分かる方は、少なくとも70才以上の方だろう。炭焼だけなら、現代では上等な木炭は高級品で、特別な製品の製作法を思われるかもしれない。しかし木炭が火力としてのエネルギー源であることは、一応現代も知られている。

 しかし「松根」とだけ言ったら、特別の香料だろうかとか、漢方薬になるのかなど思う人はいても、これが戦車や飛行機を動かす油となるための、エネルギー源だったことを、知る人はいまや大変少ないのではなかろうか。

 2次大戦中、石油の無いに等しいわが国にとって、松根の油まで利用しようとしたのである。そのため各地で多くの人が松根掘りに動員された。また終戦となっても、極端に物資の不足していた当時は、日常の暖房や炊飯にも欠かせない木炭は、一般人には入手し難かったので、素人の炭焼作業も多かったのである。

 当時の一般的な学校などは、冷暖房のないのは当たり前。特に寒い山間の学校などでは、炭火の火鉢も置かれていたようだが、戦中・後には、生徒が山から立ち木を切って運び、校庭の隅で炭焼をし、教室の暖房に当てていた。こうした炭焼は、戦後しばらく続いたのである。

 今回(2011/3/11)の東日本大震災、1ヵ月後になっても、なお震度6とか5などの、激しい余震が頻発する。この大震災は1000年に1度というような天災だったとはいえ、人間の作り出した原子力発電所の被災事故は、終焉の見えぬまま災害をより大きくしている。70~80年前のエネルギー源不足の事態と、科学の粋を集めたはずの原発の事故現状と・・これが進歩なのか・・

 3月11日の大震災があまりにも各地に広がった、大きい災害であったために、つい、人災である戦災が、日本全土に広がっていた頃を思い出してしまう。広島の原爆下の被災状況だけではない。中小都市にも広がっていた、戦災で焦土と化していた風景は、津波の各地の、悪夢の風景と重なる。その上にまたあの原子力利用という、人災が重なるとは・・・

 今回被災した多くの方々の、生活の厳しさや肉親を失った悲しみは、・・・これも大戦中と重なる・・・・いったい我々は何をしているのだろうか?

由加山出土銅剣。
その内の一本が考古館蔵

 松根掘りと炭焼をタイトルで話そうとした事は、この両者に関係あるものが考古館に展示されているからであった。しかしその2000年ばかりも昔の遺物にたどり着く前に、そこにはわが国にとって、20世紀とおそらく21世紀中でも、それぞれ最大の被害といえる、戦争という人災と地震という天災が、立ち塞がっていた。それを越すための前置きばかりが長くなった。

 ところで本題の一つは、弥生時代の銅鐸である。倉敷市粒江の種松山出土品。そこは先回・先々回に話題とした児島にある山で、大戦末期の松根掘り中に発見されたものであった。写真上に示したもので、高さ約30cm、表面には四つに区切られた方形の模様、四区袈裟襷文が付く。この銅鐸と同じ鋳型で作られたと見られる銅鐸が、徳島市安都真からも発見されている。

 いま一つは、やはり弥生時代であるが、銅剣である。倉敷市児島由加の由加山で5本出土したといわれる銅剣の内の一本である。出土地に児島の地名が付くように、これも児島の山中である。戦後すぐの頃、山中での炭焼の際に発見されたものである。

 左の図に示した4本が現存するもので、一本は壊れており、小さくて捨てたと言われている。考古館蔵品は写真に示しているように、一本だけ形が違うものだが、他の3本の内2本は、刃部の下両側に突起を突出させた、平形銅剣とされるタイプである。瀬戸内に分布する形のもので、愛媛県や香川県では、この形のものが数多く発見されている。松山市の道後あたりでは、10本とか7本などまとまって発見されている。

 この由加山出土の剣のうち、一本には連続した渦巻き文が鋳出されており、この模様はしばしば銅鐸を飾る模様でもある。先の種松山出土銅鐸でも、扁平な鈕の部分にこの連続渦巻き文がある。剣形品といえば、九州に中心がある銅剣銅矛の系譜のはずだが、この平形銅剣の製作は、近畿地方の銅鐸生産者の可能性も大きい。

 先に2回続いて、倉敷市広江あたりの事を話題にしたが、この広江の浜遺跡出土の銅戈断片を「よもやまばなし」49話で扱った時、由加山出土の5本の銅剣にも触れた。

 そこでは広江のある吉備の児島が、弥生時代以来、瀬戸内の中央あたりの大きな島として、当時の瀬戸内海の海上交通上、大きな意味を持った島であったことを、述べてきた。その証拠の一つとして、児島での弥生時代青銅器の多さに触れたのだが、これら銅器の仲間が、瀬戸内に多いことも証拠の裏付けである。

 しかしこうした銅器類が、どこで作られ、どのような形で集まったのか、集められたのか、本当にはどのような用途だったのか、十分に分かったわけではない。

 全くの偶然が掘り出した二箇所の青銅器であったが、これも戦争時代エネルギー問題の申し子かもしれない。その申し子から、あれこれと古代人を考えているようなこの現代で、後の世に残すものが、エネルギー問題から生まれた、不条理な怪物でないように・・・・

 児島の先人たちのことを思う以上に、後人たちの姿を思うのも嘘ではない・・・

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