(145) 古新聞(その2)・・・三歳で‘般若心経, スラスラ・・・ - よもやまばなし

(145) 古新聞(その2)・・・三歳で‘般若心経, スラスラ・・・
2013/3/1

 先回に続いて、古新聞からの話題。やはり「毎日新聞」で昭和26(1951)年の11月7日付、先回より3日前のもの。大体同じ頃の新聞が、そのまま一緒に箱の詰め物になっていたということだ。

倉敷市安養寺第三瓦経塚中の般若心経が記された瓦経冒頭部分 1行目に「・・般若波羅密・・」が読める

 今回のタイトルは、その日付の新聞紙上にあったタイトルのままである。当時は4ページしかない新聞の岡山版に、他の注目されるニュースのタイトルと同様、1cm角もある大きな文字で横書きされていた。サブタイトルもあり、それには「倉敷の地蔵院の大ちゃん」と、これもかなり大きな文字だった。

 旧倉敷市内生え抜きの方なら、60年以上昔のこととは言え、このタイトルだけで誰のことか、見当が付く人も多いのではなかろうか。このタイトルが、古新聞を開いていった私どもの目に飛び込んだのも、考古館のある一帯に近接した馴染み深いお寺さんで、すぐご当人も思い浮かぶことだった点もある。

 悪い事ではないので、まずご当人について・・・断りも無く勝手に実名を書かして頂いたが、現在は地蔵院の住職、御国幼稚園も経営され理事長・園長でもある松井大圓師のことと思ったのである。当時の新聞紙上には、おじいさんの恵戒師の横に正座して拝む小さい大ちゃんの写真があり、「・・・・門前の小僧のたとえ通り街の話題になっている。」と2段で各12行の記事としては、大きな部分を占めるものであった。

 しかし実は考古館に勤める者としては、僧侶でもないくせに、ここに出る心経をはじめ、仏教経典に苛められた思いが抜けきれてないこともあって、思わず般若心経に目が行ったこともある。この「よもやまばなし」でも、2007年10月に載せている9話「写経」では、般若心経そのものを取り上げ、2010年7月~8月にかけての83,84,85話では、数字をクリックしていただければ分かるように、倉敷市にある安養寺の瓦経塚を話題とし、多くの経典に苦労した話も載せている。

 いまさらまた般若心経という事でもないのだが、私たちが安養寺第三経塚を発見したのは、先の話題で述べているように1958年だった。大ちゃんが般若心経を暗誦していた頃には、経典などとは無縁の衆生だった。その頃こうした記事を目にしていても、全く記憶には残らぬものだったはず。

  しかしこの新聞発行日より7~8年後には、平瓦に経文が刻字されている瓦経で、10種以上の経典群を、カードを切ったように全くの順序不同で、土中に埋納したものが、焼きが悪かったため、粘土の塊と化した新しい安養寺瓦経塚(同地では当時より20年も前の1937年に、別の瓦経塚が偶然出土)を、私どもが発見する機会に恵まれた。

 以前の83話でも詳しく述べたことではあるが、こうした瓦経塚は、現在に至るも、正確な出土地といえば、全国で20箇所程度、その中で考古学に関わる者が、最初から遺跡を発見し得たのは、今でも他にほとんど例がない。この半世紀間にも、佐賀県で工事中に発見され、調査された築山瓦経塚くらいのものである。私たちは幸運であった。しかも、粘土塊ともいえる状態の中から、6枚もの般若心経の書かれた瓦を取り出したのである。  前に記したように、安養寺の新瓦経塚の調査や内容については、幾回も「よもやまばなし」で取り上げ、その時も、如何に本体の保存状況が悪い中で、文字判読に苦労したかは記している。こうした中で、心経も発見したのだが、証明する文字は、薄く切れ切れにしか見えないので、文字本体は写真に写りにくいので、示していなかった。

 今回たまたま般若心経に接した事で、苦労しながらも、私たちも幾度か般若心経を読んだ証に、安養寺瓦経の中で、般若心経の保存の良いもの一枚を、一応今回の写真にしたのだが・・・さて読めるかどうか。ともかくこのようなものを、500枚近く、55年も前には毎日読んでは、何経であるかを探したのである。

  ところで同日の同じ新聞紙面で、先の記事のすぐ下に、写真無しで、むしろ小さく扱われていた記事は、児島湾淡水湖化の工事費要求のものだった。昭和25(1950)年から4カ年計画の8億円で着工したが、朝鮮動乱で資材が値上がり、完成年度も一年延期のため、来年度に5億円要求、というもの。

 この記事は、考古館の前を流れる倉敷川の、その後様々な話題となった、変化のきっかけとなるものである。ともかく児島湾堤防の閉め切りは、1956年の2月の大潮の日に行われた。これは記憶に残っている。倉敷の町にとって、江戸時代以来、倉敷川が担った物資流通の動脈が、完全に死滅したことの宣言でもあった。

 この頃以後、考古館前を流れている倉敷川は、完全にどぶ川と化したのである。古くから汐川と呼ばれ、汐の満ち干の見られた倉敷川を、私たちはまだ覚えているのだが・・・・今の倉敷川河畔の情景をみると、私たちの旧い記憶も、色あせて触ると粉々になりそうな古新聞と同様、何の意味もないもののよう・・・これが「般若心経」の「空」の世界というのか・・・・経典の奥義など全く無知な衆生のボヤキ・・・・

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